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【おすすめの本】三浦しをんさんの「ののはな通信」を読んだ感想

三浦しをん・ののはな通信

 

こんにちは!KOTO(@tokotoko_days)です。

久しぶりに本屋に行ったら、三浦しをんさんの新刊を発見しました。

私はほぼ小説は読まないけれど、この方の本はずっと、ハードカバーで買い続け折にふれて何度も読み返しているのです。

今回の作品は、中学2年生のときに読んで救われた気持ちになった『秘密の花園』と根底にあるものが一緒で、今まさに求めていたものが書いてあって夢中でページをめくってしまいました。

感想というにはあまりにも説明不足で、「分かる人にだけ分かれば良い」というような文だけれど、この本自体もそういう風に書かれているものだと思うので 笑、いいかなと思い勢いのままブログに載せてしまおうとおもいます(のの&はなを見習って!w)。

三浦しをん「ののはな通信」を読んだ感想

 

この本を読み終わったとき自然と、平安時代に書かれたエッセイ『枕草子』のなかにある、

心には 下ゆく水の 湧きかえり

言はで思うぞ 言うに勝れる

という和歌が浮かんできた。

手紙やメールに記された言葉だけで構成されているのだけれど、その奥にある心情を慮(おもんばか)ってそこのみに集中することが求められる作品だなぁと。

 

言葉で表せないものは、きれいなかたちに収まらないものは、無いものと同然?

そんなはずはないと必死で言葉を紡いでいき、魂と時間を使ってお互いの抱えているものを感じ取っていく。そうしていかないと生きられない2人が出会ったのは確かに、運命だったのだと思う。

 

この2人の文通のなかに一貫としてあった根本的な救われなさと、感性と生き方がすごく理解できて、それがさみしくて、少しあたたかい。

大人になる(時間をかける)ということが全部を救い出してくれる処方箋になりもせず、どうしても鈍感に無神経にならなければならないということは分かっているつもりでも、どこかで期待してしまう。その繰り返しだし、それでもやり過ごして行くことで日々は送れてしまうのだということを改めて提示された気がする。

 

「洪水がやってきてすべてを洗い流してくれれば良いのに」

「災厄が詰まっていたパンドラの匣が開いたとき、希望だけが残ってしまった」

 

・・・中2のときに出会った『秘密の花園』でも描かれていた救われなさ。

花園を読んだ当時は、「運命の人」に出会えばすべてが救われて幸せに一生を過ごせるのかと思っていた。いや、二十代はじめの頃もそう感じていた。

でも、そうではないことを認めたくないながらも知りつつある今、『ののはな通信』に書かれていることを実感を持って読み進めることができる。

 

この本では、たとえ運命の恋に出会って一度は救われたとしても、いちばん最初にボタンを掛け違えてしまうと、その後どんなに時間をかけて上塗り・修正していってもかんぺきには戻れないという絶望も描かれているのだ。時間は色々なことを赦してはくれるけれど、決して遡りはしない。

そのときの感情の上に現在が続いていて、あとから手を入れてももうどうしようもないのだということを、その現実をみろと思い知らされている気がした。

 

だけど、それが大人になるということの全てなら哀しい。どうしても願い続けてしまう。救われたいと。全てを分け合いたいと。

 

そう考えると、最後の手紙の先にもこの2人の人生が、魂のつながりが続いていることだけは唯一の救いだ。関係性はお互いを求めあう意思がある限り、時間の流れがある限り変化していく。もしかしたら「曖昧な終わり方だ」という人もいるかもしれないけれど、結末の空白は作者の優しさなのかもとも思う。

 

きっと私は、どんなに環境が変わっても何度も『秘密の花園』に戻ってくるように、今後『ののはな通信』も何度も読み返す。しをんさんの小説はどれも大好きだけれど、そのなかでも特別な一冊になった。

 

三浦しをん「ののはな通信」のなかからの抜粋

 

何度も読み返すであろう文章がたくさんあったので、自分用に抜粋して載っけてみた(この本の内容を象徴するような完全なるネタバレなので、読んでいない人は注意)。

 

あまりにも早く運命の相手と出会ってしまったから、運命が放つ圧倒的な力に対抗する術も、運命を御するだけの経験値もないまま、ただあなたが私から離れていくのをみているしかなかった。

運命の相手なんているはずない、と嗤うひともいるかもしれないわね。あるいは、運命の相手なんて何人もいるんだから、べつのひとといくらでも恋をすればいいだろう、と。十代の恋などすべて思いこみ、錯覚にすぎない、という意見もあることでしょう。

でも、私はそれらすべてに「ちがう」と答えよう。そういうふうに言うひとは、きっと運命の相手に出会った経験がないのです。魂が惹き寄せられ、結ばれる、あのうつくしく麗しい瞬間を体感したことがないのです。かわいそうなことに。

年齢も、性別も、時と場所も選ばず、運命は唐突にひとを訪う。こちらの準備ができているかどうかも、まったく考慮には入れてくれない。だから運命とは残酷なものなのです。

運命の相手と出会うことを「死」にたとえれば、その唐突さと残酷さ、若い時期に遭遇してもなんら不思議はないことを、わからんちんたちにも少しはイメージしてもらえるだろうか。

あなたは私にとっての「死」だった。あなたとの出会いは無上の喜びと愛を私にもたらしたけれど、あなたが過ぎ去ったあとの私は、情熱も恋情も失せたぬけがらと化したのです。

それでも生命活動をつづけることはできる。あなたを失ってわかったのは、恋愛方面における情熱や活力がなくても、実生活にはなにも支障はないという事実です。ひとは恋のみにて生くるにあらず。ふふ、むしろ煩わしさが減って、仕事や自分の生活に思うぞんぶん時間と神経を傾注できると言えるような気さえします。

それに、恋の記憶は残った。あの高揚と歓喜を一度も味わわずに生を終えるひともいるのだと思えば(運命の相手なんているはずないと嗤うひとは、真実の恋をまだ一度も味わっていないことを自白しているも同然です)、やはり私は幸運だったと言えるでしょう。たとえひとときでも愛し愛され、燦然と輝く思い出を永遠に手に入れることができたのだから。

(「ののはな通信」253・254ページより抜粋)

 

私も子どもじゃないので、燃えるような激しい感情だけが愛ではないと、ちゃんと知っています。夫と私のあいだには、いまも穏やかで静かな愛がたしかにある。それこそを愛というのかもしれないとも思う。だけど、私の心の奥底には砂に埋もれた遺跡があって、いつも冷たく激しく私を見ている。

おまえはいま、小さく粗末な家で、暖炉の日に当たっている。そのあたたかさ、制御された炎を愛だと思いこもうとしている。だが、本当か? おまえは本当は、わかっているはずだ。おまえが心の奥底に沈めた私、いまや遺跡となった愛の記憶だけが、おまえの生において真実の、ただひとつのものだったのだと。おまえはいま、必死で暖炉に薪をくべ、なんとか炎を絶やさぬように努めているが、本当に持続させるべきだったものは、遺跡にしてはならなかったものは、おまえのなかで眠りについた、いまや砂まみれの愛。つまり私なのだと、おまえは本当はわかっている。

そんな声が聞こえてくるのよ。ののの声? それとも私の声? かつての私たちの声? わからない。わからないけど、とっくの昔に終わってしまったんだってことだけはわかる。

助けて。苦しい。もう二度と取り戻せないものがあると思い知らされて、苦しくてたまらない。

だけどどうしようもない。遺跡から立ちのぼる冷気に震えながら、冷気を振り払うように、必死で薪をくべつづけるしかない。穏やかで優しさに満ちた、夫との愛を持続させるために。

バカみたい!「夫婦ってそういうものでしょ」「それを幸せって言うんじゃない」なんていうひとは、味わったことがないんだ。あの激しさを、あの狂おしさを、すべてをなげうってでもだれかを欲しいと願って願って死にそうになる気持ちを。あの瞬間に比べれば、平穏や信頼やあたたかな愛なんてクソみたいなものよ。

(「ののはな通信」290・291ページより抜粋)

 

そう考えると、夫婦間における子どもの存在って、逃げ場なのかもしれないわね。誰か一人だけを見て、そのひとの求めるものがなんなのかを察しつづけ、そのひとから与えられたいものはなんなのかを熟考しつづけるのは、とても濃密で疲れることだもの。子どもという第三者がいてくれれば、力は適度に分散され、感情も煮詰まりすぎない。逆に言うと、母親が(あるいは父親が)子供に対して、パートナーと二人きりだったときのような感情を全力で注ぎこんじゃうと、子どもとしては息苦しくてつらいでしょうね。だって子どもは、その感情に応えられない。

子供はパートナーじゃないんだもの。同じ方向を見て、同じ速度で歩く相手ではない。いつか、別の方向へと歩み去っていく。それが子どもなんだし、親は本来、それを見守り、見送ってあげる存在なんだもの。

子どもがいないくせに、こんなこと考えるなんておかしい? 結局、子どもを授からなかったからこそ、私は子どもについて、親子について、夫婦について、考えるきっかけを得られたのだと思っています。

(「ののはな通信」303ページより抜粋)

 

ただ、考えずにはいられないの。与田の喜び、悲しみは、どんなところにあったんだろう。私にはむなしく薄っぺらに感じられる彼の人生は、与田になんらかの満足をもたらしたんだろうか。教師と生徒という立場を使って、自分よりずいぶん年下の女を相手にすることが、楽しさや幸せに結びつくものとは思えない。

与田のなかにあっただろう一種の「ゆがみ」を撃とうとしたら、その弾丸は私を含めた多くの人をも過たず撃ち抜くでしょう。

だれかを愛して、愛したふりをして、でも真実の愛を得られずに命が尽きるひとなんて大勢いる。私だってそうだ。どれだけ恵まれた暮らしをしているか、さりげなく披露する同窓会の女達もそう。

仕事や、稼ぎや、恋愛や、結婚や、子どもが、いったいなんだっていうの? すべてはむなしい。全部全部、喜び以上の悩みや苦しみを生みだす源にすぎないじゃない。充足しているふりをして、あの会場に集まった何人が真実、満たされているかしら? 「満たされている」と心から真実疑っていないとしたら、よっぽどおめでたい。最も肝心なもの、本当に望んでいるものー大切に思うひとからの愛や理解ーを得られるひとなんて、ほとんどいないのに。

得られないまま、いずれだれもが死ぬ。

(中略)

生命を充実させるものって、なんなのかしらね。いえ、わかってる。愛と理解だ。それがなくては、どれだけお金があっても、まわりからちやほやされたとしても、むなしいだけ。

たいがいのひとは、仕事にやりがいを見いだしたり、家族や恋人のあいだに愛情や信頼があると感じたりして、「自分の存在は無意味ではない」と信じるのでしょうね。実のところ、どんな仕事にだって代わりの人間はいくらでもいるし、愛情や信頼なんてほとんどが幻想なのにもかかわらず。

私には無理だ。自分に価値や意味があるとのんきに思うことはできない。

(「ののはな通信」325・326ページより抜粋)

 

疲れている彼女たちにとって、私はオアシスか波止場みたいなもの。それでいいんじゃない、と思ってた。私はもう一生ぶんの愛を知ったから、あとはおすそわけするの。真実の愛は、わけてもわけても減らないのよ。

(「ののはな通信」354ページより抜粋)

 

三浦しをんさんインタビュー記事などのまとめ

 

この本に関しての著者インタビュー記事や書評などをかなり気まぐれにまとめてみました👀💡

 

さいごに

 

この本に書かれていること、寸分も分からないひとも多いんじゃないだろうか。それくらい全力の作品で、だからこそ響くひとにはすごく響く傑作かつ衝撃作なんだと思う。

私はこの本を何度も大切に読み返すだろうけど、おすすめしたい知人は正直あまりいないです 笑

ただ、インターネット越しであったら、この本を同じように大切に思うひとに出会える気もする。そんなわけであえて?あくまでも?「おすすめの本」とブログタイトルに書いてみました。もし惹かれるものがあったら、読んでみてください(´ `*)