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【おすすめの詩】歴史と言葉の重みを感じる茨木のり子の詩・10選

こんにちは!KOTO(@tokotoko_days)です。

今回は、大好きな詩家・茨木のり子さんの詩の中から、歴史と言葉の重みを感じる詩を10個集めてみました。

とても易しい言葉遣いで、普段着のまま読めるのに、読んだ後に余韻が残る詩ばかりです。

 

茨木のり子の詩①「花ゲリラ」

 

あの時 あなたは こうおっしゃった

なつかしく友人の昔の言葉を取り出してみる

わたしを調整してくれた大切な一言でした

そんなこと言ったかしら ひャ 忘れた

 

あなたが或る日或る時 そう言ったの

知人の一人が指輪でも摘まみあげるように

ひらり取り出すが 今度はこちらが覚えていない

そんな気障なこと言ったかしら

 

それぞれが捉えた餌を枝にひっかけ

ポカンと忘れた百舌である

思うに 言葉の保管場所は

お互いがお互いに他人の心のなか

 

だからこそ

生きられる

千年前の恋唄も 七百年前の物語も

遠い国の 遠い日の 罪人の呟きさえも

 

どこかに花ゲリラでもいるのか

ポケットに種子しのばせて何喰わぬ顔

あちらでパラリ こちらでリラパ!

へんなところに異種の花 咲かせる

(「おんなのことば」より)

 

茨木のり子の詩②「生きているもの・死んでいるもの」

 

生きている林檎・死んでいる林檎

それをどうして区別しよう

籠を下げて 明るい店先に立って

 

生きている料理 死んでいる料理

それをどうして味わけよう

ろばたで 峠で レストランで

 

生きている心 死んでいる心

それをどうして聴きわけよう

はばたく気配や 深い沈黙 ひびかぬ暗さを

 

生きている心 死んでいる心

それをどうしてつきとめよう

二人が仲よく酔いどれて もつれて行くのを

 

生きている国 死んでいる国

それをどうして見破ろう

似たりよったりの虐殺の今日から

 

生きているもの 死んでいるもの

ふたつは寄り添い 一緒に並ぶ

いつでも どこでも 姿をくらまし

(「おんなのことば」より)

 

茨木のり子の詩③「知命」

 

他のひとがやってきて

この小包の紐 どうしたら

ほどけるかしらと言う

 

他のひとがやってきては

こんがらがった糸の束 

なんとかしてよ と言う

 

鋏で切れいと進言するが

肯じない

仕方なく手伝う もそもそと

生きてるよしみに

 

こういうのが生きてるってことの

おおよそか それにしてもあんまりな

 

まきこまれ

ふりまわされ

くたびれはてて

 

ある日 卒然と悟らされる

もしかしたら たぶんそう

沢山のやさしい手が添えられたのだ

 

一人で処理してきたと思っている

わたくしの幾つかの結節点にも

今日までそれと気付かせぬほどのさりげなさで

 

(「おんなのことば」より)

 

茨木のり子の詩④「聴く力」

 

ひとのこころの湖水

その深浅に

立ちどまり耳澄ます

ということがない

 

風の音に驚いたり

鳥の声に惚けたり

ひとり耳そばだてる

そんなしぐさからも遠ざかるばかり

 

小鳥の会話がわかったせいで

古い樹木の難儀を救い

きれいな娘の病気まで直した民話

「聴耳頭巾」を持っていた うからやから

 

その末裔は我がことのみに無我夢中

舌ばかりほの赤くくるくると空転し

どう言いくるめようか

どう圧倒してやろうか

 

だが

どうして言葉たり得よう

他のものを じっと

受けとめる力がなければ

(「おんなのことば」より)

 

茨木のり子の詩⑤「問い」

 

人類は

もうどうしようもない老いぼれでしょうか

それとも

まだとびきりの若さでしょうか

誰にも

答えられそうにない

問い

ものすべて始まりがあれば終りがある

わたしたちは

いまいったいどのあたり?

颯颯の

初夏の風よ

(おんなのことば」より)

 

 

ゆっくり考えてみなければ

いったい何をしているのだろう わたくしは

 

ゆっくり考えてみなければ

働かざるもの食うべからず いぶかしいわ鳥みれば

 

ゆっくり考えてみなければ

いつのまにかすりかえられる責任といのちの燦

 

ゆっくり考えてみなければ

みんなもひとしなみ何かに化かされているようで

 

いちどゆっくり考えてみなければ

思い思いし半世紀は過ぎ去り行き

青春の問いは昔日のまま

更に研ぎだされて 青く光る

(おんなのことば」より)

 

※「問い」というタイトルの詩は2つあります。

茨木のり子の詩⑥「マザー・テレサの瞳」

 

マザー・テレサの瞳は

時に

猛禽類のように鋭く怖いようだった

 

マザー・テレサの瞳は

時に

やさしさの極北を示してもいた

 

二つの異なるものが融けあって

妖しい光を湛えていた

 

静かなる狂とでも呼びたいもの

静かなる狂なくして

インドでの徒労に近い献身が果せただろうか

 

マザー・テレサの瞳は

クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて

じっとこちらを凝視したり

またたいたりして

中途半端なやさしさを撃ってくる!

 

鷹の眼は見抜いた

日本は貧しい国であると

 

慈愛の眼は救いあげた

垢だらけの瀕死の病人を

 

——なぜこんなことをしてくれるのですか

——あなたを愛しているからですよ

愛しているという一語の錨のような重たさ

 

自分を無にすることができれば

かくも豊饒なものがながれこむのか

さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか

こちらは逆立ちしてもできっこないので

呆然となる

 

たった二枚のサリーを洗いつつ

取っかえ引っかえ着て

顔には深い皺を刻み

背丈は縮んでしまったけれど

八十六歳の老女はまたなく美しかった

 

二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

外科手術の必要な者に

ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は

知らないのだ

 

瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの

慰藉の意味を

 

死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って

手を握りつづけることの意味を

 

——言葉が多すぎます

といって一九九七年

その人は去った

(「おんなのことば」より)

 

茨木のり子の詩⑦「ある一行」

 

一九五〇年代

しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行

 

〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉

 

魯迅が引用して有名になった

ハンガリーの詩人の一行

 

絶望といい希望といってもたかが知れている

うつろなることでは二つともに同じ

そんなものに足をとられず

淡々と生きていけ!

というふうに受け取って暗記したのだった

 

同じ訳者によって

〈絶望は虚妄だ 希望がそうであるように!〉

というわかりやすいのもある

 

今この深い言葉が一番必要なときに

誰も口の端にのせないし

思い出しもしない

 

私はときどき呟いてみる

むかし暗記した古風な訳のほうで

〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉

(倚りかからず より)

 

茨木のり子の詩⑧「木の実」

 

高い梢に

青い大きな果実が ひとつ

現地の若者は するする登り

手を伸ばそうとして転り落ちた

 

木の実と見えたのは

苔むした一個の髑髏である

 

ミンダナオ島

二十六年の歳月

ジャングルのちっぽけな木の枝は

戦死した日本兵のどくろを

はずみで ちょいと引掛けて

それが眼窩(がんか)であったか 鼻孔であったかはしらず

若く逞しい一本の木に

ぐんぐん成長していったのだ

 

生前

この頭を

かけがえなく いとおしいものとして

掻抱いた女が きっと居たに違いない

 

小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを

じっと視ていたのはどんな母

この髪に指からませて

やさしく引き寄せたのは どんな女

もし それが わたしだったら・・・・・・

 

絶句し そのまま一年の歳月は流れた

ふたたび草稿をとり出して

褒めるべき終行 見出せず

さらに幾年かが 逝く

 

もし それが わたしだったら

に続く一行を 遂に立たせられないまま

(「自分の感受性くらい」より)

 

茨木のり子の詩⑨「水の星」

 

宇宙の漆黒の闇のなかを

ひっそりまわる水の星

 

まわりには仲間もなく親戚もなく

まるで孤独な星なんだ

 

生まれてこのかた

なにに一番驚いたかと言えば

水一滴もこぼさずに廻る地球を

外からパチリと写した一枚の写真

 

こういうところに棲んでいましたか

これを見なかった昔のひととは

線引きできるほどの意識の差が出てくる筈なのに

みんなわりあいぼんやりとしている

 

太陽からの距離がほどほどで

それで水がたっぷりと渦まくのであるらしい

中は火の玉だっていうのに

ありえない不思議 蒼い星

 

すさまじい洪水の記憶が残り

ノアの箱船の伝説が生まれたのだろうけれど

善良な者たちだけが選ばれて積まれた船であったのに

子子孫孫のていたらくを見れば この言い伝えもいたって怪しい

 

軌道を逸れることもなく いまだ死の星にもならず

いのちの豊饒を抱えながら

どこかさびしげな 水の星

 

極小の一分子でもある人間が ゆえなくさびしいのもあたりまえで

あたりまえすぎることは言わないほうがいいのでしょう

(「倚りかからず」より)

 

茨木のり子の詩⑩「さくら」

 

ことしも生きて
さくらを見ています

ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら

ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう

もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう

あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば

一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

(「おんなのことば」より)

 

さいごに

 

「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生けとし生きるものへの、いとおしみの感情を優しく誘いだしてもくれます。」

(茨木のり子著「詩のこころを読む」冒頭より

 

KOTO
KOTO
私は古文が好きで、枕草子などを読んでいると、人間の精神性・こころというのは千年前でも現在でも同じなのではないか、と感じます。茨木のり子さんの詩を読むとき、綿々と繰り返してきた人の営みが感じられて、今という時間や向き合っている人が愛おしくなります。

うさ
うさ
どの詩も良いので選べなくて、10個にもなってしまいました・・・